大林晃先生に教わった人名アクセントの大切さ

2023年6月20日

現在は別の専門学校が入っていますが
建物は外壁の色が変わったものの健在です
大切なことを沢山教わった、思い出深い場所です

前回の記事で地名のアクセントや発音について取り上げたのですが、人名もまたアクセントの問題があります。今回は日本語のお話です。

例えば自分の名字。

私の場合は「花田(はなだ)」です。

これを平板型(「棚田」のアクセント)で読むのか、それとも頭高型(「カナダ」のアクセント)で読むのか。これ、地域性があるようにも感じます。

私の出身地、島根県の江津市エリアにはこの名字が比較的多いのですが、そこでは平板型です。ですから、高校時代までは自己紹介でもずっと平板型で名乗っていました。

ところが、東京では頭高型で読む人が多いように思います。

上京して、他の人たちからは殆ど頭高型で呼ばれるようになり、違和感を持ちつつも仕方なく受け入れていました。とはいえ、そのせいで「浜田」さんや「原田」さんと聞き間違うこともあり困っていました。

それが大学3年生のある日、アナウンス学校に通い始めた初日、一生記憶に残る大切な体験をしました。

当時、NHKの英語アナウンサーを目指して勉強していたのですが、英語アナウンサーの採用が数年間ストップすると聞き、ある方のアドバイスで、とりあえず(無謀ですが!(笑))日本語のアナウンサーを目指すことになったのです(このあたりのことはいずれ別の記事に書きますね……。キャリア教育の講演ではいつもお話していることですが)。

突然の方針変更を余儀なくされ、大慌てとなりましたが、当時、通っていた青山学院大学で受けていた講義「放送ジャーナリズム」の佐藤知恭先生に相談をしたところ、

「恵吉っつぁん(と呼ばれていました)、それなら、アナウンス学校に行った方がいいぞ。東京アナウンスアカデミーなら良いんじゃないかな」

と勧められ、通うことになりました。的確なアドバイスをしてくださった佐藤先生に心から感謝しています。(学生時代にとてもお世話になった佐藤先生についても、いずれ項目を改めて書かせていただけたらと思っています)

手垢で汚れていますが
書き込みで一杯のこのテキストにも
お世話になりました!

さて、入学してみると、そこでの担当の先生が、当時ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)でアナウンサーだった大林晃さんでした。

「鬼の大林」とも呼ばれ、厳しく指導される先生として評判でしたが、同時にとても学生思いの素晴らしい先生でした。後にアカデミーの校長となった方です。

最初の講義、まず受講生のリストを見て、一人ずつ名前と顔を確認されます。

そのときに大林先生が私に最初にした質問。それは驚くべきものでした。

「君の名前のアクセントは頭高型で『はなだ』と読むの?それとも平板型で『はなだ』なの?」

予期せぬ質問に一瞬、ポカンとしていたと思います。

今まで上京してから一度も、誰からも尋ねられたことのない質問です。

やがて、緊張しながらも「はい、平板型で『はなだ』です!」と答えたことを思い出します。その直後からじわじわと嬉しさがこみ上げてきました。

そして、その後、確かに大林先生は平板型で私の名前を呼び続けて下さったんです。

アナウンサーというのはスゴイ!

相手にアクセントを確認して、その人が一番気持ち良く感じるアクセントをちゃんと記憶して使うんだ!アクセントって、もの凄く大切だ!!

それが自分にとって、アナウンサーとしての仕事の原点になっているようにも思います。

ですから、英語アナウンサーになってからも前回の記事のように Melbourne の発音や Newfoundland のアクセントなどにこだわったのでしょう(こちらの記事)。

そうして、日本語でのアナウンサーの技術と知識の基礎を先生からみっちり指導していただきました。「アナウンサーマインドを注入」されたと言ってもいいかもしれません(これは大林先生に教わった元NHKアナウンサー、村上信夫さんがブログに書かれている言葉です)。

実は、そのときに学んだ日本語のアナウンス技術。色々なところで役に立ちました。

フリーのアナウンサーとして事務所に所属して活動した時期もありましたし、教員時代も顧問となった放送委員会で、生徒が放送コンテストに参加するときのアナウンス指導、さらにはNHKに英語アナウンサーとして入局してからも、海外に滞在されている日本人のために緊急ニュースを読んだり、あるいは、日本語と英語の両方を使わなければならない番組を担当したり……。良く言われることですが、人生、学んだ事は決して無駄にはならないと感じました。

でも、なにより、アナウンサーとしての大切な心構えをまず最初の瞬間に教えて下さったこと。大林先生には本当に感謝の気持ちで一杯です。2012年(平成24年)に亡くなられたのですが、私の心のなかではずっと元気に見守って下さっているような気がします。